中国の大連に出張で出向いた時の話です。
長期にわたって毎月大連に出張していたのですが、一人で出張しておりましたので、土日は一人で街を散策しておりました。
大連は中国東北地方の最南端にある都市で、早くから対外開放されている港町です。又、古くは帝政ロシアが東洋のパリを目指して都市開発をしていましたが、その後日本が統治を引き継いだ為、中国であるのにどこかヨーロッパの雰囲気と、日本らしさも残るエキゾチックな港町です。
港町独特の開かれた雰囲気と、東北地方の素朴さのある、落ち着いた街で、私は大好きな都市です。
北京や上海等の様に、規模の大きな大都市ではなく、日本で言えば地方の県庁所在地の様な感じの街です。
風光明媚な海辺の景勝地や、小ぶりな都市部が程良くバランスされている、コンパクトな都市と言った所です。ですから、毎月の様に出張をしていました当時は、休日に訪れる目新しい場所もなくなりました。
ある日、駅前の繁華街を歩きながら、気がつくと大連駅前に辿り着いていました。
上野駅と瓜二つの設計の大連駅は、何か懐かしさを覚える落ち着いた雰囲気があります。
駅前には日帰り観光の呼び込みをしている多くの人達がいました。
私にも声掛けして来るのですが、立ち止まって会話することもなく、彼らを眺めながら歩いていました。
何気なく彼らが手に持っている手書きのフリップを観ていると、大連観光だけでなく、旅順観光と書かれているフリップを持っている人たちが多い事に気がつきました。
旅順と言えば日露戦争の舞台となり、乃木将軍が203高地を苦労の末に制して勝利した場所として、歴史で習った所です。
大連中心部からは約一時間程度で行ける場所で、実は大連市の一部なのですが、感覚的には大連と旅順は違う街と認識していました。大連には何度も出張で来ていましたが、旅順には言った事が無かったので、旅順と書かれたフリップを観ているうちに、ちょっと行きたくなって来ました。
ですが、旅順は全面的には対外開放されていない街で、外国人が行けるのは歴史名所になっている203高地だけと聞いていました。それ以外のエリアに脚を運ぶには許可が必要だと知っていましたので、行ってはいけないと理解していました。
ところが、呼び込みのおばちゃん達は平気で私に声掛けして来るので、質問してみたのです。
「私は日本人なのですが、旅順観光に行く事ができるのですか?」と。
するとおばちゃんは呑気にというか、売り上げが欲しい一心でというか、
「全然問題無いよ。日本語さえ話さなければ見かけは中国人と変わらないんだから、さーバスに乗って乗って」
と言うのです。
言われてみればそうなんです。何となく外国人ぽいかなーと思われるかもしれませんが、一人だし、黙ってバスに乗ってついて行けば、日本人とはわかりません。
ええい、乗っちゃえ、ということで、バスに乗ってしまいました。
一時間弱で旅順の街に到着。
最初に連れて行ってもらった場所の名前を聞いて驚愕してしまいました。
正確な名称を忘れてしまいましたが、大日本帝国陸軍旅順市民虐殺資料館?という様な名前だったと記憶しています。
名前を聞いただけで、日本人である私が、中国人の人達に交じってこの資料館で日本軍の行いを観るのは躊躇があったのですが、とりあえず日本人とわからないように入ってみました。
日露戦争は日本がロシアに勝った闘いとしか教わっていませんでしたが、戦争の舞台は両国に関係の無い中国のここ旅順で行われていたのですから、旅順市民にとってはそれははた迷惑な話です。
その上で、日本軍の行った市民に対する蛮行を写真で初めて見て、ショックを受けました。
社会化見学なのでしょうか、多くの中国人中学生が観覧していました。
こんな写真を観たら、日本の事が嫌いになるだろうなーと想いながら、私はそそくさと館外に出ました。
外国人が行ってはいけない場所に、日本人である事を隠して参加したバスツアーで、いきなりこの資料館というのは、とてもショックでした。
その後、旅順博物館、昼食会場、白玉山、203高地、蛇のエキスをつかう薬屋さん、日本軍の要塞跡などを巡り、夕方大連駅に戻りました。
白玉山に登った時に、旅順を外国人に規制している理由がわかりました。
南側を見降ろすと、人民解放軍の艦船が港に停泊しているのです。ここは人民解放軍海軍の基地があるのです。それは中国共産党にとって高度な秘密の場所な筈です。
ですから外国人が旅順に入る事を規制しているのだと理解しました。
しかし、大連駅前の勧誘していたおばちゃんが、日本語を話せなければ問題無いとそそのかすので、ここまで来てしまったのです。
このことは本当は禁止行為をしてしまった事実なので、良い事ではないのですが、全て大連駅前の勧誘のおばちゃんのお陰で、貴重な体験を経験したのでした。