この旅を終えたら何かが変わる。
そう感じられるような旅に出たかった。
当時私は5年勤めていたIT会社の社員で、同じく5年付き合っていた彼氏がいた。中堅のIT企業らしく、若手もどんどん登用される社風だったから、同期の半分はもう部下を持っていた。
私はまだ平社員のまま。彼ともまずまずうまくいっていたが、結婚を言い出す様子はない。
Facebookの友人たちの写真が花嫁姿に変わり始めた。日々は平穏なはずなのに、毎日胸はざわざわしていた。
「なんて中途半端、なんて宙ぶらりんなんだろう。」
毎日そう思っていた。
ふと一人旅に出ようかと思い立った。そう思えば彼と付き合い始めてから一度も一人で旅をしていない。どうせならあまり皆が行かないところがいい。どこがいいだろう、と考えていたころ、家に置いてあった紅茶の箱に目がとまった。ダージリン。確かインドの地方だったか。
調べてみると、ダージリンはネパール近くにあり、天気が良ければヒマラヤの展望が臨めるらしい。ヒマラヤといえば、以前女性のお笑い芸人が登頂を目指した番組を観たっけ。仕事とはいえ、命がけで前に進む姿を、どこかうらやましく思った。
見てみたい。彼女が泣きながら立ち向かった世界最大の山。どんな姿なんだろう。
「インドに一人で行ってくる。」彼は当然猛反対したけれど、黙々とビザなどの旅行の手配を始める私を見て諦めたらしい。ホテルと航空券だけを手配して、飛行機に飛び乗った。左側に誰もいなくて、なんだか心もとない。でも足が軽い。どこでも好きなところに行ける。誰も私のことを気にしない。なんて気楽なんだろう。
デリーから飛行機を乗り換えて、バグドグラへ。日本の地方のようなこじんまりとした空港。そこに肌が黒く、巨大な荷物を持った濃い顔の人たちがひしめきあっている。生きる力が見るからに強そうだ。私はきっととてもひ弱に見えているだろう。
タクシーをチャーターしてダージリンへ向かう。舗装されてもいなければガードさえない細いぐねぐね道を、古いタクシーがすごいスピードで上っていく。「落ちた人いないの?」と英語で聞いてみたけれど、インドなまりの強い英語で返事が返ってきたから、よくわからなかった。
ホテルについて車を降りる。空港では暑くて汗をかいていたのに、肌寒くて薄いダウンを取り出した。チェックインをするために受付まで階段を上がらなきゃいけないのだけど、標高2,000m近いこの場所では、一段上がるごとに息が切れる。
受付の人に聞いてみる。
「明日ヒマラヤは見られるかしら。」
若い男の子は微笑んで言った。
「きっと見られますよ。あなたがそう強く願えば。」
部屋はこじんまりとしていたけれど、温水ヒーターがついていて暖かかった。シャワーは噂通り水しか出ない。諦めて布団にもぐりこんだ。
早朝、頼んでいたタクシーで標高2,590mの展望台へ向かう。
「お客さん、運が悪い。今日は雲が多い。」
ドライバーは片言の英語で教えてくれた。まだ外は真っ暗で、日本のように街灯がたくさんあるわけでもないから、私には空の様子が全くわからない。
「いいの、とりあえず行ってみて。」
展望台にはたくさんの車が押し寄せていた。小さな待合所にひしめきあうようにして朝を待つ。10ルピーを払って、ドライバーの分もチャイを買ってあげた。寒さに身を縮ませながら待っていると、段々と空が明るくなる。雲が多い。同じように待っていた外国人が口々に今日はダメだと言い帰り始める。2時間ほどねばったけれど、結局ヒマラヤはおがめなかった。
ホテルの人に聞くと、日中は雲がかかっていることが多いから、朝一がベストな時間帯なのだそう。日中はヒマラヤ鉄道に乗り、紅茶畑を眺めたりして観光地を回る。どこも興味深かったけれど、私はどうしてもヒマラヤが見たいのだ。
翌日の朝は雨だった。運がなさすぎると部屋でしばらく落ち込んだ。明日の朝にはここを出なければならないから、もうチャンスはない。わざわざ日本から足を運んでこの体たらくか。ヒマラヤが見られたら何かが変わるかも、なんて自分以外の何かにすがり過ぎだったのか。
ホテルのレストランで落ち込んでいると、スタッフの男の子が声をかけてくれた。あの受付にいた子だ。
「今日は出かけないんですか。」
「ヒマラヤが見たかったのに、雨が降ったから意味がない。」
私は八つ当たりするように吐き捨てた。彼はにっこりと笑って、言った。
「大丈夫、見られますよ。あなたが強くそう願うなら。」
彼が持ってきてくれたマンゴージュースは甘くてとてもおいしかった。
翌日。荷物をまとめてチェックアウトをする。結局何をしにダージリンまで来たんだろう。ホテルの外階段に足をかける。雨は止んでいたけれど、雲はまだ多かった。
ふと、空を見上げる。雲の切れ間から日が差している。キレイな光だな、と思ったその瞬間、雲を割ってヒマラヤの雄大な山々が現れた。
私は立ち尽くした。それは想像していた山の風景などではなかった。山脈があまりに大きすぎて、まるで空一面に描かれた白い山の絵のようだった。どこまでも続く、雲とも見まごうような雪の山。巨大すぎるその姿は、人間の所業などまるで無意味とも思えるほどだった。
それはほんの一瞬で、またヒマラヤは雲に覆われてしまった。けれど私には十分だった。
そうか、そうだったんだ。行きたい場所を自分で決めていないから悩むんだ。リーダーになりたくないわけじゃない、でも部下を持つのは大変そう…。結婚したくないわけじゃない、でもこの人でいいのか自信はない…。でも、でもばかりで、私は自分がどうしたいかを決めていなかったから、毎日不安だったんだ。それがどんなに困難な道だとしても、上りたい山が決まっていれば迷わずに済んだんだ。そしてそんな迷いも決意も、この世界では本当にちっぽけな事柄で、私がそこで失敗しようが恥をかこうが、世間は全く気にしないんだ。
日本に帰ってきて、私は会社のリーダー研修に申し込んだ。彼には「子どもが欲しいから、32歳までには結婚したいの。」と言ってみた。彼は私が結婚したくないのだと思っていたらしく、驚き、少し嬉しそうにしていた。
インドの一人旅で起きた小さな奇跡、けれどそれが、私を少しだけ変えてくれた。