北海道洞爺湖の虹がくれた幸せ

カテゴリー【旅✖️神様】では、様々な人が体験した旅先での奇跡の瞬間をお伝えしています。この体験談を読んで、旅で起きる様々な奇跡の瞬間を感じていただきたい、そして実際に旅に出て奇跡の瞬間を体験してもらいたい、その思いで伝えています。

 

愛知を離れ、私は雨の中、北海道に居た。

台風が襲い、風が風を呼び、夜空を激しく吹き回していた。

洞爺一帯は停電に陥ったが、僅かに街灯が、仄暗く明滅している。吹き荒れる風が雨脚を激しくして、風の音以外、寝静まったように静かである。

犬の遠吠えが聞こえる。

私は古びた旅館で煙草を燻らせ、風の音に耳を澄ませていた。

携帯が鳴る。避難勧告を知らせる緊急メールだった。俄に町は騒然とし始め、何かしら活気付いたように私には思えた。

日課である湖畔通りの散策は、今夜は不可能だった。

普段なら、夜半に湖畔を遊覧船が遊弋するのが見える。船は今夜は繋留されているに相違ない。洞爺湖畔恒例の、大掛かりな花火も打ち上がって居なかった。

再びメールが入る。

水害を恐れ、私の恋人は避難所に移った。彼女の里は海岸から近い、平地に在った。海沿いの洞爺湖町には、高波警報が出ていた。北海道では台風被害は珍しい。誰も彼もが慌てているようだった。

風は轟々と鳴る。雨が屋根や舗装路を激しく叩く。荒れ狂う風が、私の心に一抹の不安と、何がしかの愉悦感を呼び起こしていた。

私は旅館の階下に降りてビールを買い求め、旅館の主人と話をした。

主人は二重窓を閉めるよう、私に言った。些か不快な気分だったので、私は二階に戻り、窓を大きく開いた。

刹那、私は豪風に薙ぎ倒されそうになった。

慌てて窓を閉める。今夜は美しい中島は見えない。鬱蒼とした湖畔周囲の森も見えない。何も見えなかった。

私は益々苛立ち、頻りと煙草を吹かした。

黙って灰皿を見詰めていた。

降るような星の下、美しい湖畔に、昨夜は目を奪われていた。湖の心地良い風がそよぎ、緑盛の樹々が暮れかけた夏を彩っていた。汽笛の音が響き渡る。小さな波頭が寄せては返し、浴衣姿の観光客達は、湖畔の大花火に見入っていた。

今夜は、まるで嘘のようである。洞爺駅から温泉街まで、バスで20分程の距離である。私は彼女が気掛かりだったが、上手くメールが通じないようだ。壮瞥から職場に通っている宿の主人は、自分の家は高台にあるから、津波も大丈夫だと言っていた。

私は不快な気分になっていた。

旅先で軽装のため、私は身動きが取れそうもなかった。私は鎮静剤を飲み、興奮した神経を休めようと努めた。飲酒と服薬は禁忌だが、私はお構いなしだった。

翌朝、風は凪ぎ、雨も去った。

私は湖畔通りに降りて行き、湖に沿って歩いた。芝生の遊歩道には、水が滴っている。再び波止場を離れた遊覧船が、汽笛を轟かせる。

明日、私は、正式に婚約を告げる積りだった。長い期間、彼女を待たせていた。私は長かった二人の春に思いを馳せ、一人感慨に耽っていた。

ふと、湖畔から、美しい虹が、奇跡のように立ち上っていた。色彩鮮やかな虹が、私の前途を祝福してくれたかのようだった。カメラを携行して来なかったことが悔やまれたが、私は脳裏に虹を刻み込んだ。

私は勇気が湧いて、彼女を一人にはしまい、そう誓約していた。

朝の清々しい風が、私の頬に伝わる。思えばセントレアを発ち、函館経由で洞爺まで遥々やって来た。6時間半の長旅だった。

愛してる、その一言が私の言葉であった。遠く離れた、12年越しの愛だった。きっと良い返事が返って来る。私には、そう信じられた。

白いかもめが湖上で舞い踊っていた。今日、彼女と逢う。

梵字の刻印のある金属製の護符を、彼女は私にくれた。

旅の安全に、と言う。

私は懐中の護符を強く握った。これ程美しい虹は、子供の頃より見たことがない。

いつの日か、彼女と二人で湖畔で虹を見たい、私はそう願った。

ポケットの中から、安い婚約指輪を取り出し、朝日の中、指輪がきらきら光るのを、静かに眺めていた。